ブルデュー「付論 家族の精神」

エスノメソドロジストの中には、われわれが現実と見なしているものは一つのフィクションであり、特にこのフィクションを名付けるために、われわれが社会的世界から受け入れた擁護を通して構築されたフィクションだと言う人さえいます。またこのエスノメソドロジストは、今日のアメリカにおける「家族」を指すとされる多くの集団は、そうした支配的な定義とはまったく合致しないと反論する際に、また核家族は同棲のカップルや片親の家族や別居夫婦に比べれば、ほとんどの現代社会では少数派であると反論する際に、〔皮肉なことに〕「現実」に依拠しています1。[...]

(1) ここでは、エスノメソドロジーが疑義を呈するに適した例だけを引いておく。J.F.Gubrium et James A. Holstein, [...].
Je citerai ici un seul ouvrage, exemplaire par l'intrepidite avec laquelle il met en oeuvre le doute ethnomethodologique: [...] (p.135)
1 I will cite just one work exemplary in its audacious application of ethnomethodological doubt: [...] (p.73)
 家族は一つの言葉にすぎないことを、また単なる言葉による構築物であることを認めるとしても、家族によって指し示されるもの、「言葉の上での家族」、もっといえば紙の上の家族の表象を分析する必要はあります。一部のエスノメソドロジストは、社会関係のなかでも家族に高い評価を与える家族論に一種の政治的イデオロギーを読み取りますが、彼らは普通の人や学者が家族についておこなう議論に共通する諸前提のいくつかを明るみに出したのです。[p165]
十分に根拠のあるフィクション

[...] 我々がエスノメソドロジストとともに、家族が社会的リアリティを構築する原理であることを認めることができるとしても、同時に、エスノメソドロジストに対して、この原理自体が社会的に構築されたものであり、何らかの方法で社会化された全ての行為者に共通するものであることを指摘しなければなりません。いいかえますと、この原理はわれわれ精神がみなもっている、共通する物の見方や分類であり、一つのノモスなのです。[...] この構築原理は、ハヴィトゥスというある精神構造の構成要素の一つなのです。[p.168]

国家と身分証明

[...] 社会的リアリティの構築手段を見つけようとするなら、家族を社会的リアリティの直接的データとして理解することはやめねばならなくなるでしょう。しかしまた、エスノメソドロジストらが明るみに出している、誰が構築手段を構築するかということを問題にするなら、彼らが提起するような問いは乗り越えられねばなりません。家族の制度は実在する制度として、世界の客観性において、家族と呼ばれる基礎的社会体の形態のもとに考察しなければならないし、また普通の行為者によっても官庁統計家(...)のような国家の分類者によっても同じく用いられる分類原理の形態をとった精神において、考察してみなければなりません。[p.175-176]