- オイゲン・エールリッヒ(1918)、『法律的論理』、河上倫逸+M.フーブリヒト訳、3,885円、332頁、みすず書房、ISBN:4622017725、1987/10
第5章「法律的論理の根本問題」のはなし。の続き。
冒頭再引用:
【A】法規への拘束性、国家的法観、統一体としての法という観念──以上の法律的論理の3つの根本前提は、ヨーロッパ大陸の法律家にとっては現在でもなお、通常は、それ以上挙証する必要のない自明の公理と看倣されている。しかしながら、厳密に考察してみれば解ることなのであるが、そのような前提は、その各々が固有の歴史を有し、それぞれの歴史を通じてのみ理解し得るような法律的論理の構成部分へと分解されてしまうのである。その際、歴史の流れの中でそうした構成部分は、さまざまの変貌を遂げたのであって、今日支配的となっているような形を取るに至ったのは、ようやく19世紀のことだった。そして、それらが辿った長い歴史の道程を追求した、法史学者の眼だけが、時として、それらの現代的形態の中に、その始原的な意味の痕跡を認識し得るのである。[139頁]
3段落飛ばして:
【B】以上の5つの教理に共通しているのは、緻細に考察してみれば、それらがことごとく擬制だということが明らかとなってくると言うことである。[140頁]
増やすなよw。
訳注によれば、「5つの教理」は、冒頭の「法律的論理の三つの根本前提」と同じもの:
-
- 法規への拘束
- 1 訴権法上の形態、
- 2 普通法上の形態
- 3 国家的法観
- 4 弁証法的概念形成
- 5 統一体としての法という観念
- 法規への拘束
さらにこの段落の続く部分をざくっと飛ばして次の段落冒頭:
【C】他方で、右のような5つの教理を相互に論理的に調和させることはできない。[142頁]
さらにこの段落の続く部分をざくっと飛ばして次の段落冒頭:
【D】それ故、法律的論理の根本前提となっている5つの教理は、論理的には相互に矛盾しているのであって、何らかの実質的真理をも含んでいないのである。[143頁]
ともかくエールリッヒ先生、論述が下手である。ありえない。
-
- 【A】法律的論理には3つ(or5つ)の根本前提があり、自明の公理とされてきたのだが、
- 【B】これらはすべて擬制であるだけでなく、
- 【C】論理的に矛盾している。
- 【D】つまり、実質的真理を含んでいない。
という主張をするのに、こいつらの間にいちいち例示を挟むので、論旨が追いにくいことこの上ない。
1章から4章は、「【A】〜【D】」(あるいは【A】)を例証するための章なのだから、この「まとめ」の章である5章では、──「まとめ」に徹しつつ──、「これはn章で確認したことだが」とかやってくれれば それでいいはずなのだった。
つまり/たとえば、冒頭に「【A】〜【D】」を「一つの」主張として まとめて一旦おいたうえで、
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- 「【A】〜【D】」という主張に即してこれまでの各章の議論を振り返って確認したうえで、
- 「【A】〜【D】」は、つまるところどういうことなのか、について論じる
とかやってくれればよいわけで。
まともかく。
それで、仮に「【A】〜【D】」がちゃんと示せているとしたら、次は、
-
- それでは、法学(or 法社会学)は何をしなければならんということになるのか
が問題となるわけですが?
‥‥というのが5章の後半戦。
「論理的に矛盾」しているとしたら、法曹家というのはいったい「なにをしていることになるのか?」、と。そしてこの「なにをしていることになるのか?」の答え(を指示するための術語が)が、タイトルとなっている「法律的論理Juristische Logik」だ──、ということのようなのでした。
というかこの点は微妙。
いまのところ、「法律的論理」というのは、
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- あたかも「論理的」であるかのように仮構的に表象された──しかし実のところ「論理的には矛盾」している──「法の論理」
と、
-
- 法曹者が実際やっていることに見て取ることのできる(広い意味での)<論理>
を区別したうえで、