宴の支度:事実性の解釈学

ミーティング@馬場。
最終調整。とかいってまだ原稿完成してなかったりする。


等価機能主義とシステム論──方法と理論──との関係について喋っていて、ハイデガーの名が口をついて出てきたところで想い出したのだが、「システムの統一性」および「端緒テーゼ」は、「適所性」と「事実性」という語を使えば、いまの原稿よりももうちょっとだけシンプルに敷衍できるかな。

※ご参考:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050720/p1 「シュッツ的な」というより「ハイデガー的な」と書くべきだったかも知れん。

社会秩序の統一性

秩序が適所性Bewandtnis*(適所全体性・有意義性Bedeutsamkeit)をもつということ

  • =ローカルである=限界をもつ=外部をもつ=境界をもつ=固有性をもつ‥‥、ということ。
  • 秩序の局所性は秩序の複数性を含意する。

「社会システムたちがある」

社会秩序の事実性。現実存在。

  • 我々が、いつもすでに、その都度の局所的な秩序に適所参与して(固有の秩序のもとで・秩序を形成しながら)生きている、ということ。

「反省的懐疑から出発するのではない」

→「事実性の解明」から出発するよ。「反省」は 解明作業の中で(・その作業の一つとして・他の秩序の解明作業と同じ資格で) 行うよ。ということ。

* ハイデガーは、道具連関(という指示連関)についてしか議論しなかったけどね。あと、境界性や外部性は 〈死〉という形でしかコトアゲできないわけじゃない(たとえば〈システム/環境〉区別をもちいて、もっと深みのないやりかたで できる)


なので、

  • 「局所的な」というのは、「狭い」といういみではありません。
  • 「固有な」というのは、「特殊な」といういみではありません。
  • 「統一性」というのは、「自足性」といういみではありません。
  • 「秩序の事実性」というのは、理論的な仮定・仮説ではありません。
    それは「我々は、他者との関わりのなかで・道具連関のもとで生きている」という文が、仮説的命題ではぜんぜんないのと同じ。
だからこそ、事実性への接近作業は──「説明explanation」ではなくて──「(記述的)解明 explication* / Erklärung」と呼ばれるのであります。ex-pli-cation とは、襞pliを-開く-こと。拡げるのに先立って、襞は ある。
たとえば、我々が他者との関わりのなかで生きているという事実性から出発しよう」という文を、我々が生きているという仮定のもとで、そこから話を始めよう」などと書き変えることはできない。(←後者の文のいかに奇妙であることか。)
同様に、「社会秩序の統一性たちの事実性から出発しよう」という文は、「社会秩序の存在を仮定したうえで、そこから始めよう」などとは言っていない。
  • 「社会秩序の統一性を疑う」ということは、自分がその内に住んでいる秩序 の ローカリティを疑っていることになるよ。
  • 「社会秩序の統一性を疑う」ということは、「私はほんとうに生きているのだろうか」とか「他者はほんとうに存在するのだろうか」とか「言葉はほんとうに通じているのだろうか」とか「私はいまほんとうは夢を見ているのではないだろうか」と疑ったり──あるいは、「死を認識するために死んでみよう」として死んでみたり*1──することに似ているよ。
      • 「そうした疑いにはまるで意味が無い」なんて言わないけど、でも秩序を疑うことは、なんらかの秩序のもとでしかできないよね。
      • ところで、一生懸命「秩序を疑って」いるうちは、「秩序の解明」作業(=社会学者のお仕事)のほうは放置されたままになりますが。それでいいんでしょうか。


おぉ。簡単だ。(誰にとって?)


先生曰く、事実性乃解釈学トハ個体性haecceitasノ解明ナリ(大意)、と。

オントロギー(事実性の解釈学) (ハイデッガー全集)

オントロギー(事実性の解釈学) (ハイデッガー全集)


※ご参考:

*1:という哲学者がいたはずですが。