グレーシュ『『存在と時間』講義』/門脇『『存在と時間』の哲学I』


日曜日の研究会(夜の部)にて喋りかけて完遂できなかったはなしを確認するために、双方をぱらぱらと。

『存在と時間』講義―統合的解釈の試み

『存在と時間』講義―統合的解釈の試み

『存在と時間』の哲学〈1〉

『存在と時間』の哲学〈1〉


情態性・情状性 Befindelichkeit が登場するのは『存在と時間』の §29。
グレーシュの整理(p.199)によると、この付近は こんな構成になってる:

「現 Da」の実存論的意味
■本来的 ■非本来的
[1] §29 情態性 → §30 例:恐れ §37 曖昧さ
[2] §31 理解 Verstehen → §32 解釈 Auslegung → §33 言明 Aussage §36 好奇心
[3] §34 話 Rede §35 空話

これをみると、あたかも「情態性」「理解」「話」という3つの別のものがあるかのようだが、そうではない。

「広いいみでの理解」と「狭いいみでの理解(→§31)」があるのであって、前者は3つ全部に関わる(それが、門脇本7章の前半で「情状性は了解の すみか である」というテーゼでもって議論されていること(であり、日曜日に私が述べかけ──て失敗し──たことでありました))。
で、次の引用は、その議論のあとにでてくる締めの箇所:

門脇本 p.126 から:

第7章 情状性と了解──現存在の「現」

情状性──気分づけられていること としての 現(§29)

(1) 気分は、現存在の「被投性(Geworfenheit)」を開示する。[...]
(2) 気分は、影響を及ぼす存在者を開示する。[...]
(3) 気分は、世界内存在全体を開示する。[...]
[...]

 情状性の開示のはたらき方を読み取ることは、ライルのなしたような感情の論理的・存在論的カテゴリー分けに照らして、ハイデガーの感情の存在論を評価するためにも必須である。[...] 情状性というハイデガーの感情概念は、心的な出来事の生起ではない。それでは情状性は、ライルのいう意味での「傾向性[disposition]」の一種なのであろうか。情状性を「傾向性」と名付けることができないのは、「動かされ続けながら世界に釘付けにされる」といったような 経験 の様式を情状性に帰属させることができるからである。経験であるからには、われわれは相互に みずからの経験を表明しあい、ときとしてより深い解釈をその経験に関して与えることができる。[...] 気分は、了解の「すみか」として新たな意味の結合を創出する基盤となる ものであって、一定の条件の下で一定の行動のパターンを示す というような傾向性の論理には服さない。

狭義の了解(§31)

[...]

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