この論文にもニザン『番犬たち』が出てきた。
伊東俊彦(2011)「ジョルジュ・ギュルヴィッチの社会学」成城大学共通教育論集 3, 1-17, 2011-03-22 http://id.nii.ac.jp/1109/00005484/ |
参照文献
- ポール・ニザン(1932→1967/1980)『ポール・ニザン著作集〈第2〉番犬たち (1967年)』ISBN:4794912528 晶文社
- チャールズ・テイラー(2007→2020)『世俗の時代【上巻】』『世俗の時代【下巻】』名古屋大学出版会
https://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0988-1.html
https://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN978-4-8158-0989-8.html
引用
ニザン『番犬たち』からの引用。
第三共和国の大問題の一つであった道徳について考えてみよう。(中略)ブルジョアジーの大学が、固有の教義を所持するには、デュルケームを待たねばならなかった。この、精神の地位の強化、曖昧なものから独断的なものへ、混沌としたものから判明なものへのこの意向を、デュルケームの次の言葉はかなりよく伝えている。
「仕事に取りかかろう。そうすれば、三年後には道徳がうちたてられるだろう」。
(中略)何年かの間にデュルケームは、このうえなく執拗に、独裁者の厳格さをもって社会学を構築し、教えを普及した。学問の持つうやうやしい外観により、この科学の名のもとに、小学校の教師たちは、子供たちに、「祖国」フランスを敬い、階級間の協力を正しいと認め、何もかも受け入れ、「国旗」とブルジョア「デモクラシーを崇拝しながら共生感にひたるようにと教えるのである。
結論部分にて著者の曰く:
ギュルヴィッチの思想は、現在忘却されている。それは、ギュルヴィッチの理論がもっていた議論としての複雑さと煩瑣さに大きな理由があるのではあろう。しかし、より彼の思想の内実を辿っていくならば、ギュルヴィッチの相対的な忘却は、社会統合とモラルを一元化しようとする社会の「新-デュルケーム的」形態の根強さを私たちに物語ってくれているもののように思われる。今日ギュルヴィッチの思想が私たちに響いてこないとしたら、逆にそれは、社会の中に複数の善の構想を実現しようとする新たな集合性の現れに私たちがリアリティを持ちにくいということにその理由がもとめられるかもしれない。
別の理由を考えることもできる。
社会領域におけるアクターの複数性を擁護しようとするギュルヴィッチの試みは、「社会統合とモラルを一元化しようとする社会の〈新-デュルケーム的〉形態」に対する有効な対案になっていない、とかね。