ルーマン『社会構造とゼマンティク 1 (叢書・ウニベルシタス)』合評会の準備。
高橋『意味の歴史社会学―ルーマンの近代ゼマンティク論 (SEKAISHISO SEMINAR)』の注経由で。
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ルーマン『社会構造とゼマンティク 1 (叢書・ウニベルシタス)』合評会の準備。
高橋『意味の歴史社会学―ルーマンの近代ゼマンティク論 (SEKAISHISO SEMINAR)』の注経由で。
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50年代、シーダーはケルン大学のコロキウム(ドクトル試験研究会)で、コンツェはハイデルベルクの「社会史研究会」で、ローゼンベルクは短期間、客員教授をつとめたベルリン自由大学で、それぞれ多くの門下生を育てた。モムゼンやヴェーラーなどは 1930年前後に生まれ、最後のヒトラー・ユーゲント(ヒトラー青年団)の世代であった。彼らの原体験は、第三帝国とドイツ国家の消滅であり、これに大戦直後の社会的混乱と英米留学が加わる。彼らには国家消滅の体験に基づくコッカ中心視感への不信があり、反対に、伝統史学がこれまで拒絶してきた「西方志向」、つまりアングロサクソンの社会科学に開いた態度がある。しかし、「社会史の形成」に直接の関連をもつのが、彼らの徒弟時代に起こった「フィッシャー論争」であった。
- シーダー門下からは マックス・ヴェーバー研究で著名なヴォルフガング・モムゼン、ハンス-ウルリヒ・ヴェーラー、ロータス・ガル(現在の『歴史学雑誌』の編集主幹)など、
- コンツェ門下からは シーダー二世のヴォルフガング・シーダーが出た。
- また、ベルリンの「ローゼンベルク・コネクション」からゲァハルト・A・リッターやフリードリヒ・ツンケルが出た。[...] 後にビーレフェルトでヴェーラーとコンビを組むことになるユルゲン・コッカは このゲァハルト・A・リッター門下である。