マートン(1938)「社会構造とアノミー」で参照されている「成功哲学」書

講義用。マートン「社会構造とアノミー」関連文献。
この論文には、立身出世・成功、アメリカの夢を煽り立てるとともに、諦めさえしなければ どんな失敗も成功の1エピソードに変えられると訴える「どれを見てもうんざりする」書物の例として、ニューソート自己啓発書や成功哲学書の古典いくつかが登場する。


第1節(邦訳128頁)。

高遠な大望(ambition)をいつまでも保持させようとする不断の圧力が、種々の方面から加わっている。立身出世をすすめる文献は山ほどあるが、どれを見てもうんざりするものばかりだ。ちょっと考えただけでも次のようなものがある。例のコンウェル師(Russell H. Conwell)の数十万の聴衆や読者をあつめた「ダイヤモンドの王国」(Acres of Diamonds)の説教や、ついで出版された書物「新時代」(The New Day)や、「新しい機会──若い人々のために」(Fresh Opportunities: A Book for Young Man)とか、ハッバード(Elbert Hubbard)が全国中の夏期講習会に送った有名なメッセージ(Message to Gracia)とか、マーデン(Orison Swett Marden)が相続いて刊行した書物のなかで、まず第一に学長らの賛辞を得た「成功の秘訣」(The Secret of Achivement)、ついでマッキンレー大統領の賞讃をえた成功案内書「第一線をめざして」(Pushing to the Front)、最後にこうした民主主義的な人物の推薦にかかる「誰でも王になれる」(Every Man a King)という案内書などである。一平民から身を起して経済王にまで出世した象徴的事実がアメリカ文化型式の構造のなかに深く織り込まれており、おそらくその窮極的表現ともいうべきものは、自分のいい分をよく弁えていた人、カーネギー(Andrew Carnegie)の次のことばのなかにうかがわれる。すなわち、「なんじの夢のなかで王たれ。『わが地位は頂点にあり』と自分自身に語れよと。


ゾーボーは第2節「個人的適応様式の類型論」IV「逃避主義」本文中で引用されている。
同じ項において、「チャップリンミッキーマウス」は、このセットで「逃避主義」類型の例とされている。



「社会構造とアノミー」邦訳142-143 における引用箇所。

 世間的および儀式的な生活では、この種の[文化的に規定された目標と制度的な手段の双方を放棄するタイプの]逸脱的行動は、社会の在来の代表的人物が徹底的に非難したところである。社会の車輪を円滑にまわす同調者とは反対に、こうした逸脱者は、非生産的に陥りやすい。また、少くとも「抜け目なくて」積極的に努力する革新者とは違って、彼は、大いに賞讃の的となっている文化的成功目標に価値を認めない。また、少くともモレスに同調する儀礼主義者とは反対に、彼は制度的手続をほとんど顧みない。
 今日の社会は、こうした社会価値の放棄を快く承認しない。これを承認すると、社会価値に疑義をさしはさむことになろう。成功の努力を放棄した者は、すべての成員を成功獲得に駆りたてている社会から容赦なく追求の手をまぬがれない。そこで、シカゴの浮浪者街(Hobobemia)のどまん中に屋台を出した本屋があって、なしとげられない本望の挽回をめざす書物を一ぱいならべている。

 ゴールド・コースト書店は、街路に背を向けて、現在では二つの商店街にはさまれた古い建物の地下にある。前の空地には、露店や目に立つ立看板とか貼り紙がたくさんある。
 こうした貼り紙には、零落者の目を引くような本の広告がしてある。これをよむと「……無数の人々が毎日この場所を通り過ぎるが、その大多数は経済的に困っている。彼らはもう乞食の一歩手前である。にもかかわらず、彼らは、」老いさらばえて敗残の憂き身をさらさないうちに、「もっと大胆果敢に、つまり「出世」(Getting Ahead of the Game)せねばならない。こういう悲運──大部分の人身の運命──を逃れたいと思う者は、『金儲けの法』(The Law of Financial Success)を一冊買い求めなさい。それは、新しい考えを思いつかせて、成功すること請け合いである。定価35セント。
 この本屋の底先にうろついている人々がいつもいる。だが、彼らは、めったに買わない。成功は、たった35セントでさえ、浮浪者には高くつくからである。


チャップリンミッキーマウス」はカーディナーからの引用文中に登場する。こちらもけっこう長い。邦訳143頁。

 「彼[=チャップリンが演じる 役立たずbum]は、つまらない男(Mr. Nobody)で、このつまらなさ加減を自分でよく心得ている。彼は、つねに気迷いじみた騒々しい世界の注目のまととなっているが、彼はこの世界を離れて、満足のゆく無為の世界にいつも逃避している。彼は 安定や威光をめざす努力を放棄して、有徳の士だとか、高位高官につく資格なんかないものとあきらめているから、心の葛藤が全くない。([マートン注:]第四の適応型にあてはまる恰好の性秘学的人物像である。) 彼は、いつも、ふとしたことからこの煩わらしい世界にまきこまれてしまう。そこで彼は無力な弱い人々に向けられる筈忍や攻撃に紺あうが、彼自身これに立ちうちはできない。それでも、いつも、彼は、しらない間に、虐げられた人々や圧迫された人たちの擁護者となっている。それも、彼の偉大な組織力によるのではなくて、ぶっきら棒で横柄な手管で不正な人のあら探しをするくらいのものである。彼は、いつも、孤独な貧賎の身であって、このわけのわからない世界とその価値を軽蔑している。だから、彼は、社会的に是認された成功や権力の目標を達成しよラとする努力において(彼は、たった一度だけ──「黄金狂時代」(The Gold Rush)において──成功しているが)打ちのめされるか、それとも希望を失ったあきらめと目標からの逃避に屈するかのディレンマに悩んでいる現代人の性絡を代表している。チャップリソの扮するやくざは、さんざん浴びせられるこの世の害毒に、やろうと思えば、裏をかいてやれるぐらいの自負心をもっており、とどのつまり社会的目標から逃避して孤独になるのは、自分で選んだ道であって、人生敗北のしるしではないと思う満足感を万人に与えている点で、大きな世の慰めである。ミッキー・マウス(Micky Mouse)も、チャップリンの冒険譚の延長である39。」

  • (39) Abram Kardiner The Psychological Frontiers of Society (New York, 1954). pp. 369-70 ISBN:023194036X