昼食。
- ニクラス・ルーマン[1987→1998]、「社会と相互行為の進化的分化」in『ミクロ‐マクロ・リンクの社会理論―「知」の扉をひらく』
http://thought.ne.jp/luhmann/guides/guides00.html#y1987b
メモ。
- この論文の主要主張:
- 〈相互行為/ゲゼルシャフト〉はシステム類型の区別。〈ミクロ/マクロ〉は「レヴェル」の区別。 後者を前者で取り替えてみてはどうか。
- →〈少ない/多い〉〈小さい/大きい〉〈上/下〉(以下略)といった区別に依拠して社会理論を組み立てるのではなく、〈コミュニケーションの接続のあり方〉の違いに即して 議論を組み立てようといっているのなら──そういっているように読めるが──、その限りで ごもっともな主張に思われるが...。
- 〈相互行為/ゲゼルシャフト〉はシステム類型の区別。〈ミクロ/マクロ〉は「レヴェル」の区別。 後者を前者で取り替えてみてはどうか。
- 例によって途中から一挙に歴史的な話に突入する(多くの聴衆は──まず冒頭の「抽象的なシステム規定の話で振り落とされたうえで、さらに──ここで 振り落とされるに違いない。二段階選抜!)
- 議論は二つの線に沿って進んでいるように読めるが‥‥‥
- 一方では:ゲゼルシャフトの影響が弱まっていく相互行為領域がある、という話。没落してゆく上流階級における社交、宮廷恋愛、etc.
- 他方では:機能システムの中に登場する相互行為の話。
- 一方では:ゲゼルシャフトの影響が弱まっていく相互行為領域がある、という話。
- 両者ともに、「相互行為」についての見方そのものが、歴史のなかで変わってくる、という話ではある。ex.「人間」をみる際に「動機」が重視されるようになる/そうであるからこそ それを無視することが重要になる、などなど。そして一旦ここに踏み込むと、もはや「相互行為の-特定の-理論的な-モデル」によって議論を進める事は、ほとんどできなくなる(実際、ルーマンもそうはしていない)。 おそらく、だからルーマンを読むのは難しい。「だから」といえるのは、ここで ルーマン先生の陳述が おそろしくへたくそなものである点を 度外視している限りにおいて、だが。そして、読者の側が──にもかかわらず──「相互行為の特定のモデル」を陳述のうちに探してしまうならその場合、その読者は、「理論とはモデルである」したがって「理論構築とはモデルを作る事である」したがって「理論の読解とはテクストのなかからモデルを読み取る事である」したがって(以下略)云々、と 前提している ことになるわけだが事態(=読解)は破局的なものになる、‥‥というのもありそうなこと。そんなものは みつからないだろうから
- 議論は二つの線に沿って進んでいるように読めるが‥‥‥