お買いもの/納涼トッシキ祭り:ルーマン「ゲゼルシャフトと相互行為の進化的分化」

昼食。



メモ。

  • この論文の主要主張:
    • 〈相互行為/ゲゼルシャフト〉はシステム類型の区別。〈ミクロ/マクロ〉は「レヴェル」の区別。 後者を前者で取り替えてみてはどうか。
      • 〈少ない/多い〉〈小さい/大きい〉〈上/下〉(以下略)といった区別に依拠して社会理論を組み立てるのではなく、〈コミュニケーションの接続のあり方〉の違いに即して 議論を組み立てようといっているのなら──そういっているように読めるが──、その限りで ごもっともな主張に思われるが...。


  • 例によって途中から一挙に歴史的な話に突入する(多くの聴衆は──まず冒頭の「抽象的なシステム規定の話で振り落とされたうえで、さらに──ここで 振り落とされるに違いない。二段階選抜!)
    • 議論は二つの線に沿って進んでいるように読めるが‥‥‥
      • 一方では:ゲゼルシャフトの影響が弱まっていく相互行為領域がある、という話。
        没落してゆく上流階級における社交、宮廷恋愛、etc.
      • 他方では:機能システムの中に登場する相互行為の話。
        ゲゼルシャフトのサブシステムからみれば、「相互行為の再生産を介したゲゼルシャフトの再生産」。
    • 両者ともに、「相互行為」についての見方そのものが、歴史のなかで変わってくる、という話ではある。
      ex.「人間」をみる際に「動機」が重視されるようになる/そうであるからこそ それを無視することが重要になる、などなど。
      そして一旦ここに踏み込むと、もはや「相互行為の-特定の-理論的な-モデル」によって議論を進める事は、ほとんどできなくなる(実際、ルーマンもそうはしていない)。 おそらく、だからルーマンを読むのは難しい。
      「だから」といえるのは、ここで ルーマン先生の陳述が おそろしくへたくそなものである点を 度外視している限りにおいて、だが。
      そして、読者の側が──にもかかわらず──「相互行為の特定のモデル」を陳述のうちに探してしまうなら
      その場合、その読者は、「理論とはモデルである」したがって「理論構築とはモデルを作る事である」したがって「理論の読解とはテクストのなかからモデルを読み取る事である」したがって(以下略)云々、と 前提している ことになるわけだが
      そんなものは みつからないだろうから
      事態(=読解)破局的なものになる、‥‥というのもありそうなこと。