中山『思想の考古学』

ハッキング祭りは続く。

2010年の著作。

フーコー思想の考古学

フーコー思想の考古学

  • 第一章 フーコーの初期──『精神疾患とパーソナリティ』
  • 第二章 狂気の経験──『狂気の歴史』
  • 第三章 狂気と文学──『レイモン・ルーセル
  • 第四章 死と科学──『臨床医学の誕生』
  • 第五章 考古学の方法──『知の考古学』
  • 第六章 思想の考古学──『言葉と物』
  • 第七章 人間学の「罠」と現代哲学の課題──「カント『人間学』の序」

第七章 人間学の「罠」と現代哲学の課題──「カント『人間学』の序」

アプリオリの概念の逆転

 ちなみに[カントに対するフーコーの]この混乱の認識にともなって、アプリオリという概念そのものが逆転することを指摘しておこう。『純粋理性批判』では、アプリオリは経験に先立つものであり、すべての経験を可能とするものである。人間が何かを認識するときには、空間と時間という感性的な条件と、カテゴリーというご性的な条件がすでに存在し、働いているのではなければならない。このアプリオリな条件によって、初めて人間のさまざまな判断が可能になるのであり、総合が可能となるのである。

 しかしカントがこのようなアプリオリな条件をとりだすことができたのは、実際にはすでに総合が行われているからであった。カントは、『純粋理性批判』において、分析が可能なのはすでに総合が行われているからだと繰り返し指摘する。そして『人間学』が考察の対象とするさまざまなテーマにおいては、純粋な理性が陥りやすい傾向性と誤謬が、「すでに犯された」ものとして観察されていた。フーコーが指摘するように、「認識の領域において純粋なものとして与えられるものは、具体的な実存の場から考察してみれば、すでに働いているものの深みにおいて与えられるものの沈黙の光のうちで照らし出されるのである」

 このアプリオリについての解明は、フーコーにとっては二重の意味を持っていた。第一に『純粋理性批判』で行われたアプリオリの分析は、『人間学』における具体的な実存の分析によって、それが真の意味でのアプリオリではなく、具体的な総合から抽象されたアプリオリであり、じつはこの総合こそがアプリオリよりも「前にある」ものだと考える必要があるということである。アプリオリなもの、純粋なものが、じつはすでに現実の具体性に先立たれているのだとすると、それは擬似的にしかアプリオリではなく、擬似的にしか純粋ではないことになる。『純粋理性批判』でとりだされた純粋な理性なるものは、じつは純粋な理性ではなく、すでに「具体的な事物に汚染された」理性だったということになる133。[295-296]

なんじゃこりゃ。無茶言うてはるわ。

  • [1] 経験「の前に」、経験を可能にする何か があります。
  • [2] 経験を可能にする何か は、研究上は、実際の・具体的な諸経験の分析を通じて「後から」捉えられます。
    • その意味では、経験を可能にする何か「の前に」具体的な実存があります。

どこにも混乱はないぞ。逆転もないし。

  • [2] の方の「の前に」が(分析者にとっての)時間的順序関係を示しているのは明白だけど、
    [1] の方の「の前に」は どういう意味なのだろうか
とか、
  • 具体的な諸経験から出発して経験を可能にする何かにたどり着くことなんて、ほんとに できるのだろうか。
などなどといった問いは成り立ちうるだろうけれども。


しかもこの論点を梃子にして「歴史的ア・プリオリ」へと議論を進めてる。これはひどい
これはあとで確認する(宿題)。